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ニュース恩ある人が亡くなった。
つか芝居と出会ったのは、もう30年も前の80年頃。
70年代の日本の演劇界に革命を起こした若き演出家つかこうへいの名前は知っていたが、実際に観るのは初めてだった。
新宿・紀伊国屋ホールであった「蒲田行進曲」。
この時、つか劇団は活動休止を宣言しており、ちょうど最後の公演を観たことになる。
銀ちゃんが風間杜夫、ヤスが柄本明、小夏が根岸季衣だったと思う。
この時の感動は未だに忘れない。
映画や演劇を観て、涙が止めどなく溢れると言う体験をしたのは初めてだった。
意思とは関係なく涙が溢れる、この感覚はなんなんだろうと、戸惑ったのを覚えている。
心を鷲掴みにされる。魂を揺さぶられる。そんな表現がピッタリだった。
最初の出会いがそうだったので、すっかりつか芝居の虜になった。
その後しばらくして、活動再開したつかさんの芝居を観たのは、富田靖子主演の「飛龍伝」だった。
この時もまた、涙が止めどなく溢れる体験をした。
その後、牧瀬里穂、石田ひかりと主演女優が代わっても、毎回同じだった。
この頃の自分にとって、つかこうへいは「神」であり「心の師」だった。
こんなスゴい芝居をどうやったら生み出せるのか?
なぜこんなにも感動させられるのか?
やがて自分が東京を離れ、故郷・大分にUターンし、もうつか芝居は観れないと思っていた。
それが、なんという幸運だろう。神のいたずらか。
自分がUターンして2年目の1995年。
なんと、あのつかこうへいが大分市で市民劇団を旗揚げするというのだ。
行政がバックアップし地方からの情報発信。
役者は一般から募集し、生粋の大分産つか芝居を作る。
耳を疑った。まさかそんな奇跡が起こせるのか?
更に大分市がこの事業を30分のドキュメンタリー番組にするという。
企画コンペだが、自分がいた広告代理店は当然エントリーされている。
これは何が何でもコンペに勝ちたいと思った。
この時ほど勝ちたいと思ったことはなかった。
これまでのつか芝居への思い、情熱をすべて賭けて企画書を作り、プレゼンテーションした。
結果は、大分にそれほどつかこうへいを知るクリエイターがいる訳でもなく、ダントツで勝利した。
これで神・つかこうへいに会える。創作の秘密を知ることが出来る。
興奮した。創作意欲もメラメラと燃えて来た。
まずはオーディション風景の取材からだった。
オーディション会場に入ると、記者の取材を受けているつかさんがいた。
ポロシャツにGパン、サングラスの、紛れもない「つかこうへい」だった。
市の担当者に紹介され、早速マイクを向けインタビューした。
この事業の狙いは?「文化の東京一極集中に風穴を開けたい。地方発でも出来ると言うことを見せたい。」
どんな人材を期待するか。「荒削りな野の獣みたいなのが出てくるといい。」
といったやり取りだったと思う。
夢を見ているようだった。憧れのつかこうへいに自分がインタビューをする。
こんなことが現実であるはずがないと思った。
さてここからはもう連日オーディション会場に通った。
30分番組なので、普通なら1ヶ月ぐらい続くオーディションに2〜3回取材に行く程度だろう。
そんな形だけの取材はしたくなかった。
とにかく毎日通った。
オーディションは過酷だった。
参加者全員にあらかじめ渡しておいた台本を覚えさせ、実際にやらせるという形だった。
つかさんと若い演出助手が真剣勝負で指導する。
素人にそこまでやらせるというほど過激に演技指導し、一人一人が持っているものを探る。
時に声を荒げ罵声を浴びせ、時に平手が飛んだりもする。
こんな壮絶なオーディションは見たことがない。
これがつか流なのか。
中には「無名塾」や「文学座」などの研究生もいたが、経験者ほど「下手な芝居をするな!」と叱責されていた。
小手先の技術でする芝居を極端に嫌っていた。
技術よりも生の人間を見たいようだった。
「役者に大切なのは技術ではなく、どう生きて来たか。本人の生き様なんだ。」と言っていた。
日を重ねる毎に、徐々に残される者が出て来た。
残された者も何度か稽古するうち、気を抜いたりするとすぐに落とされた。
そのうち、カメラマンと二人で毎日取材に来る熱心な「広告屋」をつかさんが覚えてくれた。
審査する側にも立たせてもらったり、合格者相手に「お前やってみろ」と、いきなり相手をさせられることもあった。
セリフはつかさんお得意の口立てで、あとはアドリブである。
全く予想してなかった自分が演技するという立場になって、ひとつ気づいたことがあった。
台本があろうとなかろうと、結局自分が経験したことがすべてなのだ。
このセリフ、この動き、あの時にこうしていたなという記憶・経験から自然に出てくるものこそ大切なのだ。
つかさん流の演出とは、その役者の持つ記憶や経験、生き様を引き出すことなのだ。
だからそこに「嘘」や「作為」がなく、ストレートに観客の胸に響くのだ。
つかさんのスゴさは、人間洞察力だと思う。
本人すら気づいていない、その人間が本来持っているものを見抜き、それを引き出すチカラ。こんなチカラを持っている人はそうはいないだろう。
つかさんの芝居が「口立て」で、台本に関係なくどんどん変わっていくのも、演じている役者から出てくるものにセリフの方を合わせているからなのだろう。つか芝居の創作の秘密に触れた気がした。
オーディションの方は最終選考通過者が10人程度残され、メンバーが固まって来た。この頃には打ち上げの酒席にも呼ばれるようになっていたが、この時愕然とすることがあった。
なんとオーディション会場で罵倒され平手打ちを食らっていた参加者が、その席にいて楽しそうに談笑しているではないか。
そう彼らは東京の北区つかこうへい劇団から来ている無名の役者だったのだ。
つまりあの平手打ちは仕込み=演出だったのだ。
なんとつかさんはオーディションの場まで演出していたのだ!
その後、主演女優も決定し、演目も「熱海殺人事件」をベースにしたオリジナルの「売春捜査官」に決定。記者会見が行われた。
いよいよ「大分市つかこうへい劇団」が旗揚げされ、地方からの情報発信という新たな挑戦が始まったのだ。
そしてここまでの経緯を取材した30分テープ150本もの取材テープを30分の特番にまとめあげる地獄の編集作業を経て、ナレーターには無謀にもつかさんゆかりの風間杜夫氏にお願いして快諾をいただき、「演劇らいぶ95〜銀ちゃんよ永遠に〜」が完成。この作品が、全国自治体広報ビデオコンクールで自治大臣賞をいただくことになった。
そして更に翌年には第2部とも言える30分特番の制作も決まり、今度は「売春捜査官」の稽古風景を取材。
つか芝居が出来上がっていく過程を密着取材するという、滅多にない体験をさせてもらうことになる。
この頃のつかさんは、女木村伝兵衛という「熱海殺人事件」史上初の試みに挑み、乗りに乗っていた。
男が頼りない時代。女一人が駄目な男たちのすべてを背負って力強く生きる。という時代感覚を取り入れて、異色の「熱海殺人事件」になっていた。
「売春捜査官」は大分公演で大成功をおさめる。
つかさんは「つかの芝居を観たけりゃ大分に来い。といえるだけのものが出来た。こういうことが、野田秀樹の芝居はどこ、宮本亜門の芝居はどこ、みたいに各地方でしか観れなくなるといい。」と言っていた。
本気で東京一極集中に風穴を開けたいと思っていた。
全く無名の大分の素人役者を育て上げ、大分から東京に殴り込みをかける。
つかさんの野望は、ホームグラウンドである紀伊国屋ホールでの公演にまで登り詰めた。
ここまでが第2部とも言える「地方からの挑戦〜大分市つかこうへい劇団の軌跡〜」として、ナレーターを阿部寛氏にお願いし、30分番組として完成。
今度は毎日産業映画コンクール奨励賞をいただく。
その後つかさんの挑戦は、更にその先、母国・韓国での公演まで突き進む。
韓国での日本語の公演は例がなく、前代未聞のことだった。
つかさんにとっては「故郷に錦を飾る」意識が強かったのだろう。
だが、韓国公演はさすがのつかさんの神通力も通じず、成功とは言えない結果に終わった。
この時のつかさんの落ち込みは、周りの者も辛かった。
結局、「大分市つかこうへい劇団」は韓国公演を最後に、5年間で幕を閉じた。
つかさんが一度だけ我が家に遊びに来てくれたことがある。
当時まだ2歳だったウチの長男を抱っこしてくれたり、子煩悩な面も見せてくれた。(ウチの息子はそんなスゴい人に会ったことなど全く意に介してないが)
つかさんの周りの人間は、口を揃えて「限りなく優しい人」だと言う。
稽古での鬼の演出家とは違い、本当に愛情深い人だったと思う。
お天気屋で、子供っぽくて、いたずら好きで、ハチャメチャなところは、間違いなく「銀ちゃん」だった。
一度、酒席で自分に向かって「(まわりの女は)みんなお前がいいって言うんだよ。お前は優しいからな。」って言われて「そんなぁ冗談でしょ。」と笑って答えたことがあったが、つかさんの目はマジだった。「えっ?つかさんに嫉妬された?」と思ったが、そんな人の恋愛沙汰が大好きで、人をくっつけたり、離したりして楽しんでいた無邪気な人でもあった。
これは誰にも話していないが、一度、つかさんから「これ覚えとけ。」と言って「銀ちゃんが逝く」の台本を渡されたことがあった。
「銀ちゃん、お前でいくから。」と。
何の冗談かと思ったが、つかさんはマジだった。
まぁ結局いつもの気まぐれで、そんな話は自然に消えていったが、もしあの時
受けていたら・・・自分の人生、大きく変わっていたかもしれない。
そういう「人の人生をもてあそぶ」ところも、つかさんの魅力だったんだなとつくづく思う。
あまりに早い死は残念で仕方ない。
こんな時代、こんな日本だからこそ、まだまだ演劇を通じて「物申して」欲しかった。
自分が今、大分にいて、大分に誇りを持ち、大分発で何かを成し遂げようという志を持つに至ったのは、間違いなくつかさんのお陰である。
つかさんが15年前、志を持って大分に来てくれてなかったら・・・
今はつかさんのご冥福をお祈りすると共に、少しでも関わらせていただいた者として、その遺志を受け継いでいかなければならないと思う。
つかさん、お疲れ様でした。
少し休んだら、あちらの世界でも存分にご活躍下さい。

つかさんの後ろのテーブルに座っているのが、15年前の自分です。
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