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おもいやり
JUGEMテーマ:日記・一般
 
『 おもいやり 』

これを皆で義務感なく実践出来たなら
この世もきっと捨てたものじゃなくなるだろうと
切に思う

柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(飛鳥新社)

 私ね 死にたいって
 思ったことが
 何度もあったの
 でも 詩を作り始めて
 多くの人に励まされ
 今はもう
 泣きごとは言わない


この方99歳である

1911年生まれという事だから
第一次世界大戦
関東大震災
世界恐慌
満州事変
第二次世界大戦
など
日本の近世の辛い歴史を体験されてる大先輩だ

もちろんこの時代背景と共に個人的な辛苦を
人知れず噛みしめて来られたはずである
その重みがあるからなのか
飾り気のない素直で真っ直ぐな言葉が
読む者の心に突き刺さる

なのに何処か大きな優しさというか
僕のような青二才には真似の出来ない
達観された雰囲気が漂う
しかも語調は大変女性らしく
初々しさすら感じる
女子中学生の詩だと言われても
違和感なく読める


 私ね 人から
 やさしさを貰ったら
 心に貯金をしておくの
 さびしくなった時は
 それを引き出して
 元気になる
 あなたも 今から
 積んでおきなさい
 年金より
 いいわよ


人と人の違和感ない思いやりが感じられ
それを何より大切にしてる心の広さ
泣けてくるようなぬくもりに包まれる


詩はもちろん創作するものだが
作り込んではいけないのだと
この詩は僕ら創作者を叱咤する
素直で真っ直ぐな気持ちを
そのまま飾らず出す
その原動力はやはり

『 おもいやり 』
| 偏脳侍_しょう | ひ と り ご と | 10:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
『給食の想い出』WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より転載
JUGEMテーマ:日記・一般

先日、東京に参りました折に、
御徒町にあります「給食当番」というお店に
行ってみました。

このお店はその名が表すように
「給食を出してくれる」食堂なのです。

食器もアルマイト製のものを使ったりして
あの給食の雰囲気がバッチリでした。

なんだかとても懐かしかったです。


ところで今の給食の定番の1つに「ソフトめん」
というのがあるんだそうですが、

僕は食べた記憶が無いんですよね。
麺類のものは確か何かあったと思いますが、
「ソフトめん」という呼び名には
全く覚えがありません。


というわけで食べてみました。

なかなか美味しかったです。
うどんでも中華そばでもパスタでもない、
なんとも不思議な食感でしたね。




みなさんの学生時代、給食はありましたか?
給食、お好きでしたか?


僕のところは小学校・中学校と給食でした。


当時はかなり偏食が激しかったもので・・・

給食は基本的に好きでしたが、
イヤな想い出もありますね。


あの時代の学校というのは
「出された物は残さず必ずキレイに食べる」
という教育方針で、

時間内に食べないとそのまま居残りさせられて
食べるまで食器を片付けることを許されない、
ということがよくありました。


最後にはこっぴどく叱られたりなんかして。


今思えば、

なんでたかが給食であそこまで怒られにゃ
ならんかったのか?と理解できませんです。


現在はそんなことは無いんですってね。

アレルギーとか体質のこともあるし、
どうしても受け付けられない食物とかあるで
しょうから、無理に食べさせることも
問題があるのでしょう。


僕らの時代に、これが正しいと信じて教え込まれた
ことが実は間違いでした。ってな事例って
いっぱいありますよね。

運動中は絶対に水を飲ませてもらえなかったし。



いきなりネガティブなハナシから入りましたが、


反対に好きなメニューが出た日の給食ほど
嬉しかったことはありませんですね。


色々ありましたけど、

やっぱり一番はカレーかなぁ。
給食のカレーって、かなり薄味なんですけど、
それでもやっぱり美味しかったですね。

カレーの日の給食は、とても量が少なく
感じました(笑)


あと味付けされたごはんね。
ピラフとかちらし寿司とか。

くだものも色々出ましたが、全てが好物な
わけではありませんでした。


僕が生まれて初めて食べた「柿」は、
給食で出た柿でしたが、渋柿でした。(笑)

トラウマになって、それからしばらくは
柿が食べられませんでした。



そして給食の基本と言えば
「パンと牛乳」ですが、



ワタシ、牛乳は大好物です♪

今この歳になっても好きですね。

一時は「どこの牛乳が一番美味いか」を
調べてみたりして、ハマりましたです。


市販されているものでは、「低温殺菌牛乳」
というのがとても美味しいです。

牛乳嫌いな人でも、低温殺菌牛乳なら飲めた、と
いう話しも聞きます。


牛乳と言えば、中学時代、

学校の自転車置き場と給食室がすぐ隣りに
ありまして、
給食室の外にはその日の給食の牛乳瓶ケースが
積み上げられていたのですが、

1ケースに2〜3本くらいの割合で、キレイに
キャップがかかったままの「新品」の牛乳が
残ってまして・・・


よく部活の帰りに飲んでました。(笑)


もちろん冬場だけですよ。
気温の高い時期はさすがに怖くて
やりませんでしたが・・・

しかしそれにしてもとんでもないこと
やってたものです。


でも、部活で疲れた身体によく冷えた牛乳は
この上なく美味しかったです。



一方のパンですが、

ウチの学校の場合、食パンは美味しかったですね。
ほんのり甘みがあって。

コッペパンは今ひとつでしたが、
ごくまれに出てきた「あげパン」は好きでした。



学校で出た給食の中で、珍しくレシピを公開した
ものがありました。

材料はまずポテトチップス(!)
そしてシーチキンとマヨネーズ。

この3品をお好みの割合でボールにぶちまけ、
ひたすらかきまぜます。


出来上がりです。

シーチキンの油でポテチがしんなり柔らかくなった
その食感が面白くて、なかなか美味しいです。


これ、今でもたまに自分で作ります。
思いっきりカロリー高そうですが(苦笑)
お酒のつまみにピッタリなのです。


なぜ給食で出たのか今もって謎ですが・・・



もっと他にも色々好きだったメニューが
あったと思うのですが、

なにぶん、中学校を卒業して30年近く経ちますので、


だいぶ記憶は薄れてきています。

僕には子供も居ませんし、「給食」はすっかり
縁遠いものになってしまいました。



と、そんな僕のように懐かしさを感じる御仁が
多いのでしょうか、

前述の「給食当番」のようなお店が
現れたりするんでしょうね。



「食育」という言葉がありますが、

育ち盛りの時期に家庭の料理以外の食事を
摂る機会があるというのは、
やっぱり大事なことだな、とつくづく思います。



「子供手当て」が世間で論議を呼んでいますが、
給食費を払わない親が増えているという昨今、

現金でバラまくよりも、こういった給食などの
補助に回した方がよっぽど公平で効率的なのでは
ないかな?と思います。



給食の形や中身は時代と共に変わっても、

給食に込められた、
子供達の健やかな成長を願う気持ちは
今も昔も変わらないのだと思います。
| GONG(リシーヴ魂隊関西支部部長 兼 奈良県総長) | WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より | 10:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
『自分の心ひとつ』WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より転載
JUGEMテーマ:音楽

自分の心ひとつで  世界はかわる。 
大げさな話かもしれないけど、
心の持ち方をかえるだけで、きっと。

朝起きて、 
今日もまた1日いやだなー   って気持ちで  いると、
何もかも  しんどいし、  下向きになる。     

それならば  いっそ、  朝起きて、  今日も1日幸せや!   
なんだか  無理やりかもしれない 

けれど、  
 たったそれを  考えるだけで  目の前に見えるものが  少しかわったりする。

前向き、  笑顔、  感謝、  っていうのは 
何よりも最強だと  思います。     

何か、  憂うつやなって  思うことがある日は、 
少しだけでも、 
その気持ちを  忘れないで  居たいと思う。 
| YAK. | WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より | 10:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
嫁からの便り WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より転載
JUGEMテーマ:日記・一般

先日、相方の、母方の祖母が天国へと旅立ちました。享年89。
 
 会うといつも「おお、来たかー」と言って私の手をぐっと引きよせ、小さな両手で力強く握りしめてくれたおばあちゃん。「嫁さんは元気か?」、「もっと食えー」。結婚当初、おばあちゃんがまだ元気だった頃は、「あんたも飲め」と言って一緒に日本酒をくみかわしたことも。おばあちゃんは、酒とたばこを愛する 人でした。
 
 
 
 正確に言うと、私はおばあちゃんの「嫁」ではなかったし、「嫁」という言葉もあまり好きじゃなかったけれど、なぜか、相方のおばあちゃんにそう呼ばれることは嫌じゃありませんでした。むしろ、「嫁さん」と言ってかわいがってくれることがとてもうれしかったし、初めからすっと受け入れてくれたこともありが たかった。初めて会った日に、ベランダで炭火で焼いてくれたホルモンがとてもおいしくて、私はその日から、ホルモンが食べられるようになりました。
 
 
 
 ここ1年の間は入退院を繰り返し、下関へ行くたびに、違う病院へ見舞いに訪れていました。体は弱っても、頭は私たち以上に回転が速く、病院内のあれこれをくまなく観察しては漏らすひと言に、私たちはいつも大爆笑。寂しさから何度もナースコールを押す同室のおばあさんに一喝するおばあちゃんの姿は、まるでその部屋 のボスのようでした。
 
 
 
お葬式を終えておばあちゃんの家へ行くと、おばあちゃんの部屋に色紙が1枚飾ってあるのを見つけました。それは、ある病院を退院した時に、看護師さんたちが書いてくれた寄せ書き。家族の前では男前にふるまう人でしたが、一歩外に出るとうつむき加減で微笑み、「ありがとうございます」と上品にふるまっていたおばあちゃん。あのよそ行きの笑顔や言葉遣いを思い出し、涙が笑いに変わ ってゆきました。
 
 
 
おばあちゃんのお通夜・お葬式は、なぜか笑顔が絶えませんでした。もちろん、悲しみは漂っていたけれど、おばあちゃんの姉妹、子ども、孫、ひ孫が勢ぞろいして、みんなそれぞれにおばあちゃんとの思い出を口にして。おばあちゃんはたくさんの姉妹の長女として、母として、祖母として、みんなの面倒をよく見てき た人だったんだなとあらためて実感しました。
 
 
 
遺影には私たちの結婚式で撮った写真が使われていました。カメラを向けるとはにかんでうつむきがちだったおばあちゃんが、唯一前を向いてにっこりとほほ笑んだその写真は、一番よく面倒を見てかわいがったという相方の手を握りしめて写ったものでした。
 
 
 
棺には、一人ひとり、千代紙におばあちゃんへの手紙を書いて入れました。私は覚えたてのハングルで「カムサハムニダ!(ありがとうございます)」と。おばあちゃんと韓国語で話すことが夢だったのに、もうそれが叶わないのかと思うと残念でなりません。まあ、こんなことを言ったら「もうわからん。(韓国語は)忘れたー」と遠い目をして笑いそうなおばあちゃんですが…。
 
 
 
               *
 
 
 
おばあちゃんが生まれ育った韓国は、私の母方の祖父が7歳から18歳頃まで過ごした土地でもありました。韓国が日本の侵略地(植民地)であった頃、15~16の若さで結婚し日本に渡ってきた相方の祖母と、親の都合で日本から韓国へ渡った私の祖父。祖父の歴史を知ったのは、亡くなってしばらく経ってからのことでした。
 
 
 
先日、母方の祖母を見舞うため、熊本県の天草を訪れました。玄関のドアを開けると、目の前に大きなガラスケースがあり、中には色鮮やかな韓服に身を包んだ人形が飾ってありました。もう何年も前からそこに置いてあったそうですが、私がその存在に気づいたのはこの時が初めて。
 
 
 
祖父のアルバムにも、戦後2度訪れたという韓国旅行の写真がたくさん残っていました。祖父にとっての韓国は、青春時代を過ごした思い出の地でもあり、自分の母を亡くした忘れがたい地でもあったのだと思います。もう叶わないことですが、祖父にもっと話が聞きたかったな…。
 
 
 
最後に。この天草という土地は、私が生まれた場所でもあり、相方のおばあちゃんが日本に渡ってきた頃、新婚時代を過ごした場所でもありました(新婚と言っても、おばあちゃん曰く、つらい思い出ばかりだったようですが…)。「いつか一緒に天草へ行きましょうね」という約束も果たせないまま、おばあちゃんは逝ってしま いましたが、相方との縁を強く感じさせてくれたおばあちゃんの存在は、私の中で永遠。
 
 
 
「おかしいねえ、あんたには(昔のことを)よく話すねー」と言いながら教えてくれたおばあちゃんの昔話。もっと続きが聞きたかったー!コチュジャンの作り方、キムチの漬け方も教わっておけばよかったなあ。後悔は尽きませんが、もしいつか子どもが生まれたら、ひいおばあちゃんがどんなに楽しく、愛情深く、お もしろい人だったのか、伝えてあげたいなと思います。
 
 
 
ハルモニ、チョヌン チグン ハングンマルル ヨルシミ コンブハゴ イッスムニダ(おばあちゃん、私は今韓国語を一生懸命勉強しています)。
 
縁あっておばあちゃんの嫁になれたことを私は誇りに思います。
| s i g e w o(ライター)山口県在住 | WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より | 09:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
「告白」〜学校と家庭と言う名の戦場から目を背けるな〜 WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より転載
JUGEMテーマ:映画


「告白」が「社会現象」と言っていいほどの反響を呼んでいる。
なぜここまでの反響を呼ぶのだろうか?
それは、誰もが今の学校や家庭を取り巻く「異常事態」に危機感を募らせているからではないだろうか?
学級崩壊。いじめによる自殺。未成年者の凶悪犯罪。無差別殺人。
家庭崩壊。親殺し。子殺し。
これらがここ数年、新聞の紙面を飾らない日がないと言っていいぐらい頻発している。これを「異常事態」と感じない人はいないだろう。
そして誰もが「なぜこうなってしまったのか?」の答えを求めている。

「告白」が凄いのは、その答えを理由なき殺人で娘を殺された被害者である女教師の視点と、加害者である男子生徒たちの視点から探ろうとしていることだ。
特に、愛娘を殺された母親の凄まじいまでの復讐の方法。
殺人に至るまでの加害者の身勝手な動機と、殺害後の無反省な態度は、これまであまり描かれる事がなかったものだ。

更には戦場の真っ只中にいながら、無神経な第3者でしかない若い熱血教師。
息子を溺愛する愚かなモンスターペアレンツの母親。
一見優等生な学級委員だが、心の闇を抱えている女子生徒。

かなりデフォルメされているようで、実は現実にいそうな登場人物たちが、絡み合いながら、視点を変えながら、「なぜこうなってしまったのか?」に迫っていく。
日本は戦後60年以上経って「平和ボケ」だと言われるが、実はこんな身近な「学校」や「家庭」が、凄絶な戦場になり、その最前線で大勢の子どもたちが命を落としているのではないだろうか?

この映画をどう観るかは、ひとそれぞれ違うかもしれない。
ある人は、あまりに過酷な現実に衝撃を受けるだろう。
ある人は、現実はこんなものじゃないと思うだろう。
女教師の凄まじい執念に背筋が寒くなる人もいるだろう。
加害者の少年たちに同情する者、共感する者もいるかもしれない。
この映画の凄さは、そんな視点の多様さにある。
ゆえに、観終わってから色んな思いが浮かび、しばし整理がつかず呆然となる人が多いのも頷ける。
松たか子の鬼気迫る演技が凄いのは言うまでもない。
加害者の男の子たちの追いつめられていく姿はひたすら痛々しい。
原作ではそれほど存在感を感じなかった学級委員の女子生徒が、映画では仮面を被った優等生として想像以上の存在感を放つ。
この役を演じた、演技未経験の「橋本愛」の美少女振りも特筆モノだ。


さらに恐らく中島監督が一番苦労しただろうと思われるのが、「1年B組」という架空だが、現実にありそうな「崩壊クラス」を創造することではなかっただろうか?
オーディションの段階から相当綿密な計画性を持って人選し、一人一人にキャラを与え、一人一人が実際にいそうな子を演じることで、見事にありそうな「崩壊クラス」が誕生している。
この「クラス」が実は、誰がいつ加害者になっても不思議ではない、最も恐ろしいモンスターの巣窟なのだ。
監督がこの「クラス」を作り上げることにかなりの神経を使ったであろうことは、想像に難くない。そして見事に成功している。
ただ一つ疑問点を挙げるとすれば、スタイリッシュ過ぎる映像表現だろうか。
スローモーションを多用し、カメラアングルも斬新で、全体にブルーなトーン。これらのお陰でえげつないシーンもフィルターがかかり、それほどリアルではない。それが本当の当事者たちの地獄を描き得ていないのではないかということだ。
これが例えば若松孝二監督だったらどうだろう。恐らく吐き気を催すぐらいリアルな地獄絵図になるのではないだろうか?
ただそうなるとR15ぐらいでは済まない。間違いなくR18だし、これだけ多くの観客動員は成し得ないだろう。
つまりこの「スタイリッシュさ」は、いい面悪い面、両方持っているという事だ。
監督の意図は本当はR15にはしたくなかったはずだ。
真の戦場で戦っている当事者の中学生にこそ観てもらいたかったはずだから。
それを単に「血しぶきが飛ぶ」程度の表現でR15にしてしまう、当局の事なかれ主義も、KYな熱血教師同様、罪は重いと思う。
更に、これは原作を読んだ時から感じていたことだが、この物語は「母子の物語」であって、見事に父親が不在なのである。

単に不在なだけでなく、女教師の夫は「夜回り教師」をモデルにしたかのような立派な男性なのに、若い頃の自堕落な生活が元でエイズに感染しているし、少年Aの母が再婚した相手は、優秀な母に不釣り合いな取るに足らない平凡な男と描かれている。
作者の、父親に対する不信感や敵意まで感じてしまう。

さらに学校サイドでは、兄のような存在である熱血教師は、空気を読めない無能ぶりだし、校長を始め父親的存在の男性教師は全く登場すらしない。
「はなからそんな連中には期待してない」と言うかのごとくである。
見事に「父親=大人の男性」の存在を無視しているのである。
父親である自分は、この「父親の不在」にこそ問題の根源があるのではとも思ってしまう。
意図的に「不在」とすることで、逆に責任の重さを感じさせようという、作者の「企み(悪意)」を感じるのだ。
原作を読んで、映画を観て、そう感じる父親がどれだけいるかはわからない。
そもそも、この映画を観る「父親」がどれだけいるのだろうか?
「そんな子供だましの映画なんか観れるか。」とふんぞり返ったり、「仕事が忙しくて観てる暇などない。」と仕事に逃げたりが、大多数なのではないだろうか?
そんなことだから、作者に物語から、父親が「除外」されるのだ。
もし、「告白」の中に父親が登場するとしたら・・・
我が子を優等生で良く出来た娘と勝手に思い込み安心しきって、娘の心の闇に全く気がつかない、女生徒の父親。

保身だけしか考えず、女教師を即刻クビにして、すべてをもみ消そうとするステレオタイプの校長。
こんな「父親」は見たくない。
現実の世界同様、「告白」の物語の中に、我々「父親」はどのように「存在」すればいいのだろう?
これはすべての父親に突きつけられた、重大な課題なのではないだろうか?
なんだか取り留めのない感想になってしまったが、それだけ一筋縄ではいかない作品だと言う事だ。
本年度、日本映画ナンバー1となり、各賞を総なめにする事は間違いない問題作である。

| 和泉 歳三(リシーヴ魂隊 大分県総長) | WEBマガジンリシーヴ2010年8月号より | 16:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
WEBマガジンリシーヴ2010年8月号定例更新
JUGEMテーマ:日記・一般
WEBマガジンリシーヴ
2010年8月号
更新いたしました。

http://risi-v.com
| WEBマガジン リシーヴ編集部 | 編集部よりお知らせ | 12:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
「考え方捉え方」WEBマガジンリシーヴ2010年7月号より転載
JUGEMテーマ:音楽

6月は母の命日がありましたが、7月は父の命日で8月が弟。

並んでしまいました。

母は68歳
父は77歳
弟は23歳で他界しました。

この年齢で人生終わるのが早いのかちょうど良かったのか…

まだまだ寂しくも悲しくもありますが
最近ふと考えます。

と言うのも

例えばこの世に生まれて3年や10年しか生きられず
まだ子供のまま亡くなる人。

かたや80年や100年以上のご長寿の方々もおられる。

同じ人生なのに、その人達に比べれば、
この世では短命で早死にと惜しまれるでしょう。

不慮の事故や不可抗力により命を絶たれ、
人生を終わらされてしまう人も居る。

少ししか生きられず短い人生やったと
残された家族や友人知人は嘆き悲しむと思います。

でもそれはこちらの世界からの価値観で見たらの話で
あの世の価値観とは逆なんじゃないかなぁと。

と言うのも

人生は一生修行と言います。

この世に生まれて来た意味の一つは、
人間界に修行に来てるんだと。


色々な喜怒哀楽の中で、辛い事や悲しい事に揉まれ、
楽しい事や嬉しい幸せな瞬間に巡り合い、
山あり谷あり風に吹かれ、
精神と心を成長させる。

色々経験して決して満足せずとも、
この世ですべき事を成し遂げる為に生きて、寿命で去る時は、
修行を終えてあの世に帰ると言う。

だから自殺は修行を全うせず途中で投げ出し
逃げてしまう事だから重罪で、
天国に行け無いとも言われてます。

どんなに辛くても、
まずは修行を全うしなければ。

そして向こうに帰れば「お帰り〜」って
誰かが迎えてくれるんでしょうか?

本人は「ようっ久し振り!、やっと人間界での修行が終わったわ〜
しんどかったなぁ…」とか
「戻って来てほっとしたわ、やっぱりここ(霊界)が一番やっ」って
思ってるんじゃ無いかなぁと。

それは向こうに行ってみな解らない事ですが、
そう思う事でその人の短い一生を、
亡くして惜しい人を
こちらの人間が嘆き悲しむ事も無く、
向こうの世界でゆっくり休んではると思えば
死の捉え方は又変わるんじゃ無いかと。


すなわち生まれて来るって、
向こうの世界ではまだ未熟なので、神様仏様が
「お前はまだ未熟やから人間界に行って修行して来〜い!」って
修行が必要な魂に与えられた試練なんじゃ無いかなぁと思います。

その期間は

「お前は・・・3年でいい」

「お前は10年じゃ〜」って言われても
 
修行期間は比較的短く
 
「やった〜短くて済む〜っすぐ帰って来るよ〜っ」って
喜んでるのかも。

かたや
「お前は80年か100年間長寿修行して来い〜っ」って言われたら、
その時はガックリして、まるで無期懲役のごとく

「え〜っ80年間も修行〜!?」

「100年も人間界に居なあかんの〜?嫌や〜っ」って
嘆きながらこの世に生まれて来てるのかも。

こっちの世界では長生き出来て良かったねぇ〜
大往生やねぇって言われ
ボケたり徘徊しなければ自他共に喜ばれる。


そう思うのも

生まれた瞬間や生まれ変わる前の過去の記憶を覚えてる子供も
居ますよねぇ。


だからあながちそうなのかもと。


そりゃ死ぬ瞬間まで死にたく無い〜って足掻くかもしれませんが、
一端死んでしまったら我に帰ったように、
生まれ変わる前の記憶に戻り、
以外とあっさり納得してるんじゃないかと。

よく死んだらあの世で一緒になろうねって某アイドル歌手や
テレビドラマでも見かけますが、
それぞれが戻るべき場所に戻ったら
あの世で一緒に成れなくても、
結構しっくり落ち着いて幸せにやってるんじゃ無いかなぁと。


ただこの世に執着して、あの世に行けず
恨みつらみを晴らすべく怨霊悪霊の幽霊となり、
自ら苦しい状況に何年も成仏出来ずに、
この世をさまよってるんやろうなぁ。

自殺した人も、修行を途中で投げ出した事により、
戻る場所に戻る事も許されず、
いつまでもさまよい
後悔しているんじゃないかと。

だからこの人生

与えられた寿命を精一杯生き抜く事に
全ての意味が有ると感じます。


しかし

何故自分だけこんな目に…

何故こんな不幸ばかりが続くのか…

何故自分ばっかり辛い目に…

何もかも上手く行かないし楽しい事もない…
 
もう死んでしまった方がらくかなぁ・・・

などなど思う事はあるでしょう。

それは生まれ変わる前の世界で
同じ苦しみを人に与えていたのかもしれませんね。

因果応報

どこかの世界で宿命を転換しなければ、
何度輪廻転生して生まれ変わっても、
その因果はつきまとうって言われてます。

死んだら終わりやん

次の世ですればええやん…

そう言いながら、何千年何万年同じ不幸が
続いて来てるのかも。


今の世で変わらなければ
又次の世でも同じ苦しみと不幸を背負うのかも
知れません!


って…

いつの間にか説教くさく
だんだん最初の話から逸れて来たような…


まあ

この世で、今世で与えられた自分の命の時間

生きる意味を見失わず
精一杯生きる事が全てです!

そりゃ人と比べりゃ何でやねんって事も多々

多々っあるでしょう!

生まれながらの金持ち

生まれながらの美貌

それに比べ何で私わこんな…

何度考えても不公平過ぎるやんっ!

怒りもわかります。

何世代も前

時代も国も違えば私も美人と言われてたんやっ!(かもしれん)

って人も居るでしょう。

でも言い出したらキリが無いっ!

生まれた時代と国の価値観
個人的な美的感覚により
どうしょうも無いんですっ!

諦めましょう。

人それぞれ大なり小なりコンプレックスがあると思います。

この前電車乗ってたら、凄いチェホンマン並みに背も顔も
各パーツのデカい人が乗って来ました。

その人は空いていた自分の隣りに座られました。
そして向かいのガラス窓に並んだ二人が映りました…

なんと座高も顔の大きさもほぼ同じ…

背丈は自分より20センチ以上は高いと言うのに…

なんでやねんっ!


チビがモテた時代も

デブやハゲがや顔がデカい人がモテた時代も
あったでしょう


でも

でもしゃあないんです!

この怒り

誰にぶつければっっっ


又又話は逸れましたが


亡くなられた方々

志し半ばで惜しまれながら逝った人

そんな人達の前で、ただ闇雲に悲しむより

この世での宿命と使命を果たし、
あちらの世界で今は幸せに暮らしてはると想像してみよう。

そう色んな意味で前向きに考えるのもいいんじゃないかと
 
月命日が続く中
ふと感じた今日この頃でした。
| 山下 忠彦(シンガーソングライター) | WEBマガジンリシーヴ2010年7月号より | 11:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
【恍惚の住人】WEBマガジンリシーヴ2010年7月号より転載
JUGEMテーマ:日記・一般

猫も犬も飼っているのだが、トイプードルの老犬に
どうやら軽いボケ症状が出てきているようで、おかしな場所で
失禁する。本人も事後、それがわかっているのか隠れるように
身をひそめる。後始末が面倒というよりも、私は切なくなる。
生まれたての元気いっぱいの頃から一緒にいるからだ。

 曾祖父はあまりボケていないように思ったが、老人病棟の
ベッドにぐるぐる巻きにされていたシーンを思い出すにつけ
徘徊があったようだし、ボケとは関係ないが、足の裏の指紋が
一切なくなっていたことにギョッとした小学生時代の私である。

 曾祖母は典型的な認知症であり、ご飯を食べさせてもらってない
嫁に通帳盗まれた、爺さんは死んでいる等々、毎日、周囲の方が
気が狂いそうなほど凶暴な発言が多かったそうである。

 祖父は根っからの大人しい性格だったせいか、認知症を患って
からも家にあるミカンというミカンをハンカチで1個ずつ厳重に
梱包するという作業の後に、所構わずこっそり糞尿を垂れ流すという
静かなるボケであったが、たった一度だけ、便秘気味の便を自らの
指によりほじくり出そうとして、トイレを血と便まみれにするという
猟奇的な事件を起こしたそうである。

 祖母は若いころあれほど認知症を恐れていたにもかかわらず、
親類縁者の中で最も派手にボケてしまい、またボケている自覚が
皆無ゆえに、会う人会う人に「ボケたらどないしようかと思って
ますねん」という大ボケをかまし周囲をハッピーにさせてもくれた。
 ボケ外来にも通っていたというのに、留まることを知らぬボケは
彼女の鼻毛の成長がメーターであるかのように、食事ボケは当然
訪問者がわからないボケ、粗相どころか、直腸脱という括約筋の
劣化に伴い、な、な、なんと直腸が肛門から落ちてきてしまった。
もちろん便もそのまま流れ落ちるという惨劇を、手術処置まで
ずっと演じてくれたものであった。
 しかし、上記4名共に、ボケてしまい、介護者は大変な労苦を
強いられていたものの、突然に、母の顔、父の顔に戻る瞬間があり
介護をする子供である大人たちは、切なくなり涙するのだと聞いた。

 近頃、いやもう何年も前から、固有名詞を思い出すのに数分、
長くて数日かかることがある私。もしかして、もしかしたら将来。
そんなことより、父や母が認知症だと判断されたら。
考えなくてはいけないのに、考えることを途中で止めてしまう。
これも立派なストレス回避の方法らしいのだが、はてさて。
 今、強いて考えるとするならば、気持ち良いボケのために
色んな意味合いで、お金を貯めておかなければ、ということだろうか。
 あと一つ、子宮や直腸などの内臓が外に出てくるのだけは、
自他共に怖いので、今から皆で括約筋の引き締めエクササイズを
しようではないか。

| ナマ田 あすか(コラムニスト) | WEBマガジンリシーヴ2010年7月号より | 11:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
『格闘技と私』WEBマガジンリシーヴ2010年7月号より転載
JUGEMテーマ:スポーツ


『格闘技と私』



いきなりベタなタイトルですみません。(苦笑)



「プロレス」に関してはこのコラムの最初の頃に
書きましたので、

今回は「格闘技」について語ってみたいと思います。


と、申しましても、



実はワタシ、自身は格闘技の経験は全くありません。

身体が大きいので、よく初対面の方に
「柔道やってました?」「相撲やってました?」と
聞かれるのですが、何もやっていません。

高校に進学する時、本当は柔道部に入りたかったの
ですが、中学時代のバスケ部の先輩に半ば強引に
バスケ部に引き込まれてしまったので(笑)
それは叶いませんでした。


ただやはりプロレスにハマっていた流れで
(昔はプロレスも格闘競技だと思っていましたので)
色んな格闘技に興味だけは持っていました。



一番最初は「空手」でした。中学3年の頃でした。

プロレスにのめり込むキッカケになった「初代
タイガーマスク」の使う蹴り技が空手の技である、
とどこかで耳にしまして、(実際には空手ではなく
キックボクシングだったのですが)

本屋で空手の入門書を物色し、「ケンカ十段」
芦原英幸さんの著書を購入しました。

この時初めて、空手には「伝統派空手(寸止め)」と
「フルコンタクト空手(直接打撃制)」があることを
知りました。


初めて生で空手を観たのは、忘れもしません、
1988年、正道会館の第7回全日本大会でした。

この大会は、初めて空手の試合を「リング」で
行うという画期的な大会でした。

さらに、「実戦最強」を標榜していた正道会館が
それまでの空手には無かった「顔面パンチ」の
技術向上のため、グローブ着用による顔面パンチ
ありのルールを導入した大会でもありました。

これが後の「K−1」へと繋がる原点だったのです、

この大会は衝撃的でした。

無名の、「街の空手道場に通う近所の兄ちゃん」的な
選手達がリングでスポットライトを浴びて闘うのです。

どの選手も輝いていました。
この時初めて、格闘技の魅力に引き込まれていった
ような気がします。

ちなみにこの大会で優勝したのが佐竹雅昭、
そして角田信朗が「涙と感動の浪花男」という
キャッチフレーズで初めて注目された大会でも
ありました。


若干順序は前後しますが、


「総合格闘技」という概念を始めて打ち出したのが
初代タイガーマスクだった佐山聡が創設した
「シューティング」(現在の修斗)でした。

「打撃でボクシング、キックを超え、投げでレスリングを
超え、締め技で柔道、サンボを超える。」
を目標にするのだということで、

それまでどちらかと言えば打撃系の方に向いていた僕が、
柔道やレスリングにも興味を持つようになりました。



僕自身は格闘技経験は無い、と言いましたが、

ほんの少しだけ「プチ体験」をしたことが2回あります。


1つめは高校時代。

なんと、僕の通っていた高校の先生が、在学中に
オリンピックで金メダルを獲得したのです!

ロスオリンピック柔道60kg以下級の
細川伸二さんでした。

細川先生には残念ながら直接受け持ってもらったことは
無かったのですが、ある日の体育の柔道の授業に
臨時で細川先生に担当して頂いたことがありました。

そこで「袈裟固め」を習ったのですが、

細川先生に袈裟固めをかけてもらい「返してみ?」と
いうことなので押し返そうとするのですが、

100kgの僕が60kgの細川先生を
全く動かすことが出来なかったのです!

まるで柔道着を杭か何かで畳に打ちつけられている
ような感じでした。

衝撃でした。



もう1つは社会人になってすぐ、
社内のレクリエーションか何かで「相撲大会」が
ありまして(笑)

バラエティ番組に出てくるような肉じゅばんを
着せられて大会に臨みました。

体格にモノを言わせて無難に決勝まで進んだの
ですが、

決勝戦では、決して大きくはない相手に
あっさりと敗れてしまいました。

素早いタックルであっという間に懐に入られ
両足を刈られ、力を出すヒマもなく
転がされてしまいました。

後で聞いたのですが、彼はレスリングの
経験者だったのだそうです。


組み技系格闘技の奥の深さを(当時はそこまで
深くは考えませんでしたが、今から思えば)
知らされたエピソードでした。


シューティングと同時期に
「シュートボクシング」という、キックボクシングの
亜流と言える立ち技競技も誕生しました。

シューティングと名前が似ていますが源流は同じで、
「UWF」というプロレス団体が誕生のキッカケでした。

(いつか機会があれば、この「UWF」についても
語ってみたいと思います。なんぼでも書けます。(笑))


キックボクシングとの大きな違いは、投げ技および
締め技が認められている点です。


このシュートボクシングには深くハマりまして、
プロの大会はもちろん、関西で開かれるアマチュアの
大会にもよく足を運びました。

後に喜界島出身の「岩下雅大」という選手がこの
シュートボクシングからデビューし、
さらにこの競技への興味が増大したのでした。


次に来た衝撃は、やはり「グレイシー柔術」の
存在を知った時でした。

「倒れた相手に馬乗りになって上から素手で殴る」
なんていうことは、プロレスではもちろん、
当時の格闘技界では絶対的「タブー」でした。

僕も最初は「こんなのは格闘技じゃない!」と
思っていました。


しかし日本の格闘技界は果敢にもグレイシー柔術、
そしてそのルールに則った「アルティメット・
ファイティング・チャンピオンシップ(UFC)」
に挑戦しました。

月日を追うごとに、日本の格闘家達はこの
過激なルールに対応していき、ついには
世界をリードする技術を身につけてしまいました。

その進化、対応力の凄さには本当に驚かされます。



ここまで挙げられなかった格闘技も
もちろん大好きですよ。


ボクシングのことは最初、素人考えで「蹴りが
使えるキックボクシングの方が強いんじゃないか?」
と思っていましたが、とんでもないです。

よく考えれば当たり前のことなんですが、

単純に例えれば、
キックボクシングの選手が1日に使える時間の50%を
パンチの練習に、残り50%をキックに費やしていると
すれば、

ボクシングの選手はその100%をパンチの練習に
使っているわけでして、

そこで磨かれるパンチのテクニックというのは
もの凄いものがあるわけです。

実際、キックの選手がボクシングのジムに出稽古に
行ってキリキリ舞いさせられたという話しは
よく聞きます。


あと忘れちゃいけないのが、「相撲」

他の格闘技と相容れにくい競技なので、実は興味を
持つまで時間がかかったのですが、

デーモン小暮閣下曰く、相撲とは

「世界最大の専業格闘家組織」なのだそうでして、

もうこの一言だけで十分にその凄さを表しているの
ではないかと思います。




よく聞かれるのですが、

格闘技の見かた、楽しみ方には
いくつもの方法が存在すると思います。


単純に「どっちが強いんだ」という力比べを楽しむ
見かた、

「相手がこう来れば、こう返す」といった、
囲碁や将棋のような頭脳戦、技術の攻防を楽しむ方法、

そして、選手のサイドストーリーから追っていき、
感情移入して見る「ドラマ」的楽しみ方、などなど。



しかしまぁ、僕がここでくどくど言うよりも、

プロレスと同じで、実際に会場に足を運んで
生で試合を観てもらうのが一番わかりやすいんでは
ないかな、と。



というわけで、ミもフタも無い一文で
今回のコラムは締めくくりたいと思います。(笑)
| GONG(リシーヴ魂隊関西支部部長 兼 奈良県総長) | WEBマガジンリシーヴ2010年7月号より | 11:29 | comments(2) | trackbacks(0) |
銀ちゃんよ永遠に〜恩師つかさんの思い出〜
JUGEMテーマ:ニュース
恩ある人が亡くなった。
つか芝居と出会ったのは、もう30年も前の80年頃。
70年代の日本の演劇界に革命を起こした若き演出家つかこうへいの名前は知っていたが、実際に観るのは初めてだった。
新宿・紀伊国屋ホールであった「蒲田行進曲」。
この時、つか劇団は活動休止を宣言しており、ちょうど最後の公演を観たことになる。
銀ちゃんが風間杜夫、ヤスが柄本明、小夏が根岸季衣だったと思う。
この時の感動は未だに忘れない。
映画や演劇を観て、涙が止めどなく溢れると言う体験をしたのは初めてだった。
意思とは関係なく涙が溢れる、この感覚はなんなんだろうと、戸惑ったのを覚えている。
心を鷲掴みにされる。魂を揺さぶられる。そんな表現がピッタリだった。
最初の出会いがそうだったので、すっかりつか芝居の虜になった。

その後しばらくして、活動再開したつかさんの芝居を観たのは、富田靖子主演の「飛龍伝」だった。
この時もまた、涙が止めどなく溢れる体験をした。
その後、牧瀬里穂、石田ひかりと主演女優が代わっても、毎回同じだった。
この頃の自分にとって、つかこうへいは「神」であり「心の師」だった。
こんなスゴい芝居をどうやったら生み出せるのか?
なぜこんなにも感動させられるのか?
やがて自分が東京を離れ、故郷・大分にUターンし、もうつか芝居は観れないと思っていた。

それが、なんという幸運だろう。神のいたずらか。
自分がUターンして2年目の1995年。
なんと、あのつかこうへいが大分市で市民劇団を旗揚げするというのだ。
行政がバックアップし地方からの情報発信。
役者は一般から募集し、生粋の大分産つか芝居を作る。
耳を疑った。まさかそんな奇跡が起こせるのか?
更に大分市がこの事業を30分のドキュメンタリー番組にするという。
企画コンペだが、自分がいた広告代理店は当然エントリーされている。
これは何が何でもコンペに勝ちたいと思った。
この時ほど勝ちたいと思ったことはなかった。
これまでのつか芝居への思い、情熱をすべて賭けて企画書を作り、プレゼンテーションした。
結果は、大分にそれほどつかこうへいを知るクリエイターがいる訳でもなく、ダントツで勝利した。

これで神・つかこうへいに会える。創作の秘密を知ることが出来る。
興奮した。創作意欲もメラメラと燃えて来た。
まずはオーディション風景の取材からだった。
オーディション会場に入ると、記者の取材を受けているつかさんがいた。
ポロシャツにGパン、サングラスの、紛れもない「つかこうへい」だった。
市の担当者に紹介され、早速マイクを向けインタビューした。
この事業の狙いは?「文化の東京一極集中に風穴を開けたい。地方発でも出来ると言うことを見せたい。」
どんな人材を期待するか。「荒削りな野の獣みたいなのが出てくるといい。」
といったやり取りだったと思う。
夢を見ているようだった。憧れのつかこうへいに自分がインタビューをする。
こんなことが現実であるはずがないと思った。

さてここからはもう連日オーディション会場に通った。
30分番組なので、普通なら1ヶ月ぐらい続くオーディションに2〜3回取材に行く程度だろう。
そんな形だけの取材はしたくなかった。
とにかく毎日通った。
オーディションは過酷だった。
参加者全員にあらかじめ渡しておいた台本を覚えさせ、実際にやらせるという形だった。
つかさんと若い演出助手が真剣勝負で指導する。
素人にそこまでやらせるというほど過激に演技指導し、一人一人が持っているものを探る。
時に声を荒げ罵声を浴びせ、時に平手が飛んだりもする。
こんな壮絶なオーディションは見たことがない。
これがつか流なのか。
中には「無名塾」や「文学座」などの研究生もいたが、経験者ほど「下手な芝居をするな!」と叱責されていた。
小手先の技術でする芝居を極端に嫌っていた。
技術よりも生の人間を見たいようだった。
「役者に大切なのは技術ではなく、どう生きて来たか。本人の生き様なんだ。」と言っていた。
日を重ねる毎に、徐々に残される者が出て来た。
残された者も何度か稽古するうち、気を抜いたりするとすぐに落とされた。
そのうち、カメラマンと二人で毎日取材に来る熱心な「広告屋」をつかさんが覚えてくれた。
審査する側にも立たせてもらったり、合格者相手に「お前やってみろ」と、いきなり相手をさせられることもあった。
セリフはつかさんお得意の口立てで、あとはアドリブである。
全く予想してなかった自分が演技するという立場になって、ひとつ気づいたことがあった。
台本があろうとなかろうと、結局自分が経験したことがすべてなのだ。
このセリフ、この動き、あの時にこうしていたなという記憶・経験から自然に出てくるものこそ大切なのだ。
つかさん流の演出とは、その役者の持つ記憶や経験、生き様を引き出すことなのだ。
だからそこに「嘘」や「作為」がなく、ストレートに観客の胸に響くのだ。
つかさんのスゴさは、人間洞察力だと思う。
本人すら気づいていない、その人間が本来持っているものを見抜き、それを引き出すチカラ。こんなチカラを持っている人はそうはいないだろう。

つかさんの芝居が「口立て」で、台本に関係なくどんどん変わっていくのも、演じている役者から出てくるものにセリフの方を合わせているからなのだろう。つか芝居の創作の秘密に触れた気がした。
オーディションの方は最終選考通過者が10人程度残され、メンバーが固まって来た。この頃には打ち上げの酒席にも呼ばれるようになっていたが、この時愕然とすることがあった。
なんとオーディション会場で罵倒され平手打ちを食らっていた参加者が、その席にいて楽しそうに談笑しているではないか。
そう彼らは東京の北区つかこうへい劇団から来ている無名の役者だったのだ。
つまりあの平手打ちは仕込み=演出だったのだ。
なんとつかさんはオーディションの場まで演出していたのだ!

その後、主演女優も決定し、演目も「熱海殺人事件」をベースにしたオリジナルの「売春捜査官」に決定。記者会見が行われた。
いよいよ「大分市つかこうへい劇団」が旗揚げされ、地方からの情報発信という新たな挑戦が始まったのだ。
そしてここまでの経緯を取材した30分テープ150本もの取材テープを30分の特番にまとめあげる地獄の編集作業を経て、ナレーターには無謀にもつかさんゆかりの風間杜夫氏にお願いして快諾をいただき、「演劇らいぶ95〜銀ちゃんよ永遠に〜」が完成。この作品が、全国自治体広報ビデオコンクールで自治大臣賞をいただくことになった。
そして更に翌年には第2部とも言える30分特番の制作も決まり、今度は「売春捜査官」の稽古風景を取材。
つか芝居が出来上がっていく過程を密着取材するという、滅多にない体験をさせてもらうことになる。
この頃のつかさんは、女木村伝兵衛という「熱海殺人事件」史上初の試みに挑み、乗りに乗っていた。
男が頼りない時代。女一人が駄目な男たちのすべてを背負って力強く生きる。という時代感覚を取り入れて、異色の「熱海殺人事件」になっていた。
「売春捜査官」は大分公演で大成功をおさめる。
つかさんは「つかの芝居を観たけりゃ大分に来い。といえるだけのものが出来た。こういうことが、野田秀樹の芝居はどこ、宮本亜門の芝居はどこ、みたいに各地方でしか観れなくなるといい。」と言っていた。
本気で東京一極集中に風穴を開けたいと思っていた。
全く無名の大分の素人役者を育て上げ、大分から東京に殴り込みをかける。
つかさんの野望は、ホームグラウンドである紀伊国屋ホールでの公演にまで登り詰めた。
ここまでが第2部とも言える「地方からの挑戦〜大分市つかこうへい劇団の軌跡〜」として、ナレーターを阿部寛氏にお願いし、30分番組として完成。
今度は毎日産業映画コンクール奨励賞をいただく。
その後つかさんの挑戦は、更にその先、母国・韓国での公演まで突き進む。
韓国での日本語の公演は例がなく、前代未聞のことだった。
つかさんにとっては「故郷に錦を飾る」意識が強かったのだろう。
だが、韓国公演はさすがのつかさんの神通力も通じず、成功とは言えない結果に終わった。
この時のつかさんの落ち込みは、周りの者も辛かった。
結局、「大分市つかこうへい劇団」は韓国公演を最後に、5年間で幕を閉じた。

つかさんが一度だけ我が家に遊びに来てくれたことがある。
当時まだ2歳だったウチの長男を抱っこしてくれたり、子煩悩な面も見せてくれた。(ウチの息子はそんなスゴい人に会ったことなど全く意に介してないが)
つかさんの周りの人間は、口を揃えて「限りなく優しい人」だと言う。
稽古での鬼の演出家とは違い、本当に愛情深い人だったと思う。
お天気屋で、子供っぽくて、いたずら好きで、ハチャメチャなところは、間違いなく「銀ちゃん」だった。
一度、酒席で自分に向かって「(まわりの女は)みんなお前がいいって言うんだよ。お前は優しいからな。」って言われて「そんなぁ冗談でしょ。」と笑って答えたことがあったが、つかさんの目はマジだった。「えっ?つかさんに嫉妬された?」と思ったが、そんな人の恋愛沙汰が大好きで、人をくっつけたり、離したりして楽しんでいた無邪気な人でもあった。

これは誰にも話していないが、一度、つかさんから「これ覚えとけ。」と言って「銀ちゃんが逝く」の台本を渡されたことがあった。
「銀ちゃん、お前でいくから。」と。
何の冗談かと思ったが、つかさんはマジだった。
まぁ結局いつもの気まぐれで、そんな話は自然に消えていったが、もしあの時
受けていたら・・・自分の人生、大きく変わっていたかもしれない。
そういう「人の人生をもてあそぶ」ところも、つかさんの魅力だったんだなとつくづく思う。

あまりに早い死は残念で仕方ない。
こんな時代、こんな日本だからこそ、まだまだ演劇を通じて「物申して」欲しかった。
自分が今、大分にいて、大分に誇りを持ち、大分発で何かを成し遂げようという志を持つに至ったのは、間違いなくつかさんのお陰である。
つかさんが15年前、志を持って大分に来てくれてなかったら・・・
今はつかさんのご冥福をお祈りすると共に、少しでも関わらせていただいた者として、その遺志を受け継いでいかなければならないと思う。
つかさん、お疲れ様でした。
少し休んだら、あちらの世界でも存分にご活躍下さい。


つかさんの後ろのテーブルに座っているのが、15年前の自分です。
| 和泉 歳三(リシーヴ魂隊 大分県総長) | スタッフの日常( etc ) | 10:26 | comments(4) | trackbacks(0) |
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